バイオリンに夢中な令嬢と、初恋をかなえたい王子
第十話 ピアノ室にて、求婚の返事
ピアノ室の近くまで行くと、ピアノを練習する音が漏れ聞こえてきた。フランツがフィリックスのために作った曲を、誰かが弾いている。中盤の難しいあたりを、テンポを落として練習している。
できるだけ正確に弾けるようにがんばっているのが、聴いて分かる。彼は昔から、地道な努力ができる人だ。私はピアノ室の扉を開けて、中にいる人に声をかけた。
「フィリックス。お帰り」
彼は、ぱっと顔を上げる。
「マデリーン!」
笑顔になって、私の方へ駆け寄る。私も彼の方へ向かった。ぎゅっと抱きしめられる。再会できて、すごくうれしい。私は今、愛おしさを抱きしめている。
「君のお母さんから、君が俺の帰りを待ちわびていると聞いた。リスのようにせわしなく玄関ホールを歩きまわっていたと」
フィリックスは少し早口だ。私は笑う。
「そうね。一日が十日のように感じたし、メトロノームの針でさえゆっくりと動いた」
「返事を聞かせてほしい」
彼は性急に問いかけた。
「でもその前に、あなたは私に『結婚してください』と言っていないわ」
私はちょっと怒った。彼は前回、この部屋で、かんじんな言葉を発していないのだ。そして私は動転していて、そのことに気づいていなかった。
翌日、ふと思いかえしたときに、求婚の言葉をもらっていないことに気づいたのだ。フィリックスは私の体を離して、苦笑する。
「そうだったかな? 覚えていない」
「そうよ」
私も笑った。フィリックスは私の前にひざまずく。私は彼に、右手を差し出した。産まれたばかりの音楽を奏でるように、フィリックスは私の手を取る。彼は手のこうに、口づけを落とした。
「俺の美しい小鳥。俺にとって音楽そのもの。マデリーン、結婚してほしい」
あまやかな熱が伝わってくる。たとえようのない幸福感に、私は包まれた。
「私の誠実な王子。音楽の都を象徴する人。もちろん、喜んで」
フィリックスは顔を上げてほほ笑んだ。私も笑う。それから、妙なことに気づいた。
「フィリックス、あなたはなぜ汚れていないの?」
彼はきょとんとして、立ち上がる。そう言えば、アドンもきれいな姿をしていた。彼らは長旅から帰ってきたばかりなのに。フィリックスは楽しそうに、笑い声をたてた。
「旅で汚れて汗くさい体で、君の家に来てよかったのか?」
「服が汚れていても、私は大喜びであなたに抱きついたわ」
私は笑う。だが実のところ、汚れていない方がありがたい。フィリックスとアドンはどこかで旅の汚れを落とし、服を着替えてから、私の家に来たのだろう。どこかとは、――それは当然、アダンとアドンの家だろう。
「ベルナール侯爵家に寄ってから、来たのね」
私が確認すると、フィリックスはうなずいた。
「俺はすぐに君の家に行きたかったが、求婚の返事をもらうのにふさわしい姿になるべきだと、アドンに言われてな」
彼は申し訳なさそうに笑う。君を待たせて悪かった、と謝るように。しかしアドンらしいアドバイスだ。アドンもアダンも、拙速さを好まない。
「侯爵家に着いたら、執事が『アダンはロベール伯爵家へ行った』と教えてくれた」
それで、アドンも私の家へ行くことにしたらしい。私の家に到着したら、私の母が、ルイーズ王女が応接室にいる、彼女に応対するためにマデリーンとアダンは応接室に行ったと話す。
母とフィリックスとアドンで相談した結果、アドンは応接室の近くの廊下で様子を見ることにした。母は自室に隠れて、フィリックスはピアノ室で私を待つことにした。
「君とうまく再会できてよかった」
フィリックスは安堵してしゃべる。
「アダンとアドンのおかげだわ」
私は、頼りになる友人たちに心から感謝した。フィリックスも同意する。彼は笑顔で、特に旅の疲れを感じさせなかった。いや、一週間以上の長旅で疲れてはいるのだろうが。私はうずうずとして、ピアノを見る。
「フィリックス、お願いがあるのだけど」
私は、スタンドに立てられている自分のバイオリンを手に取った。
「フランツがあなたのために作った曲を演奏しない? その、……旅の疲れが残っているところ、申し訳ないんだけど」
遠慮がちにお願いする。もしかすると、強引にねだっているのかもしれない。しかしフィリックスは、嫌な顔をしなかった。彼は、にっと笑う。
「そう言うと思っていた。ただし一回だけだぞ」
彼はピアノの前に座る。私は、やった! と跳びはねた。
「すばらしい曲で誰かと合わせたいのに、あなた以外の人と演奏できないのよ」
私はバイオリンに肩当てを付ける。次に弓の根元をくるくると回して、弓を張る。
「君が俺以外の男とこの曲を演奏したら、俺は嫉妬(しっと)で狂うぞ」
意外に真剣な声だ。私にとって、うれしい言葉だった。彼は、弾きやすいように楽譜の一枚一枚を譜面台に並べる。私はバイオリンで、ご機嫌なハ長調の音階を鳴らす。この曲の始まりは、素朴で明るいハ長調だ。
「旅で一週間以上弾いていないから、まちがえても怒るなよ」
フィリックスは楽譜を見ながら、弱気な調子で話す。
「怒らないわ。私がバイオリンで、あなたをリードする」
私は勝ち気に笑う。
「君は本当に、昔から変わらない」
フィリックスは笑い、ピアノを弾き始めた。
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