バイオリンに夢中な令嬢と、初恋をかなえたい王子
第八話 バイオリンの二重奏、待ちわびて
バイオリン二重奏の「雨の朝」は、戦地へ行った夫の帰りを待ちわびる女性の不安でもの悲しい曲だ。私はバイオリンで、切なくやるせないメロディーを奏でる。
アダンのバイオリンは、そんな私を優しく包みこむような雨の音。私の気持ちをなぐさめてくれる。曲が終わると、私は廊下へ通じる扉を見た。扉は開かない。ノックもされない。
「まだフィリックスは帰ってこないわ」
ピアノ室で、私はがっかりする。アダンは、くすくすと笑った。
「君は一曲弾き終わるごとに、扉を見る。マデリーンはすっかりと、せっかちになった。初めての本気の恋が、気長な君を変えた」
フィリックスは私に、一週間、返事を待つと告げた。けれど実際は、一週間も必要なかった。私はフィリックスが好きで、私の家族も彼が好きだ。私はフィリックスを信頼しているし、彼の家族のことも信頼している。
フィリックス以上に私を愛してくれる人はいないだろう。そして、彼以上に私が愛せる人もいない。翌日には、私の心は決まっていた。私はフィリックスと結婚し、ターヤ王国へ行く。それ以外の人生などない。
私は求婚の返事をしようとした。彼は、きっと喜んでくれるだろう。だがフィリックスは王都にいなかった。仕事で、ロワール王国南部の街へ出かけてしまったのだ。これまた仕事で、アドンが同行しているという。王都から南部の街まで、馬で二日ほどかかる。
「フィリックスとアドンが王都に帰ってくるのは、だいたい一週間後だよ」
父の言葉に、私は「そんなぁ」と嘆いた。
「なぜフィリックスは、こんなタイミングで王都を出るのよ」
私が文句を言うと、父は厳しい顔つきになった。
「彼は南部への旅立ちの準備でいそがしいにもかかわらず、昨日、君に会いに家まで来てくれたのだ」
フィリックス王子は仕事でロワール王国に滞在している、と父は言う。父の言うとおりだった。私は辛抱して、一週間待った。しかしフィリックスは帰ってこない。
「帰還が一日や二日遅れるのは、よくあることよ」
いらいらする私を、母はなだめた。これも、母の言うとおりだった。何かトラブルがあれば旅は遅れる。それにトラブルがなくても、雨が降ったとか話し合いが長引いたとかで、旅は遅れるものだ。今は七月下旬で、雨はそこまで降らないが。
こんなことになるなら、その場ですぐに結婚すると返事すればよかった。私は後悔したが、今さらどうすることもできない。フィリックスに手紙を書きたくても、彼が今、どこを旅しているのか分からない。
私が落ちつきなくフィリックスを待っていると、アダンが私の家までやってきた。片手にバイオリンケースを持って、優しくほほ笑む。
「マデリーン、君が玄関ホールでバイオリンを弾きながらフィリックスを待っている、と君の父上から聞いた」
私は顔を赤くした。
「そんなこと、やっていないわ。いや、……やったかも」
一週間でフィリックスが王都に帰ってくると思っていた私は、その日の夕方、玄関ホールでずっとうろうろしていたのだ。アダンは、ふふっと笑う。
「僕もアドンがいなくてさびしい。今日は日曜日だというのに、一緒に楽器を演奏する人がいない。今日の午後は、さびしさをまぎらわすために、ともに過ごさないか」
確かに双子の片割れがいなくて、アダンはさびしいだろう。だが彼は、心穏やかにアドンを待てる。私みたいにそわそわしたり、親に迷惑をかけたりしない。だからアダンは私のために、こう提案しているのだ。
「ありがとう。あなたは、いつも親切だわ。そして弦楽器の名手でもある」
私はほほ笑む。そんなわけで、私とアダンはピアノ室でバイオリンを弾いたりピアノを弾いたりしているのだ。
私は初心にかえって、「きらきらしている星」をバイオリンで演奏する。バイオリンを習う子どもたちは、たいていの場合、この曲から始める。五小節目から、アダンによる豪華なピアノ伴奏が加わる。
子どものための曲なのに、彼のピアノは大人の余裕と色気に満ちている。貴婦人たちが、感嘆のため息を漏らすような。――もはや、ちがう曲だ。短い曲が終わると、扉がノックされた。
「フィリックスだわ!」
私は大喜びで、扉に駆けよる。しかし扉を開けると、廊下に立っていたのは、困った顔をした母だった。
「ルイーズ王女殿下が突然、あなたに会わせてほしいと家に来たの。今、応接室にいらっしゃるわ」
「え? 何の用かしら」
私も困った。
「それが、教えてくれなくて……」
母は、応接室の方へ視線をやった。とはいっても、応接室とピアノ室は遠いが。母の横顔には、王女の訪問は迷惑だと書かれていた。ルイーズは、先々週の城のパーティーで私にいじわるをした。彼女はフィリックスと結婚したいようだった。
私はルイーズに会いたくない。王女は、何か嫌なことを言ってきたり要求してきたりするのではないか。私と母が途方に暮れていると、アダンがやってきて、にこりと笑った。
「僕のいとこのルイーズが、マデリーンに何の用だろう。僕も応接室に行っていいかな?」
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