夜に秘める


薄闇の夢から覚めると,弟の顔がすぐそばにあった.
私はとても驚いて,弟の白い秀麗な顔をただ見つめることしかできなかった.
「……起きていた?」
丸い室内灯を背中に背負う,二歳年下の弟.
「今,起きた.」
居間のソファーで眠っていた私に,覆いかぶさるように立っている.
そっと弟の体を押して,私は起き上がった.
つけっぱなしにしていたテレビが,午前一時を告げる.
「風邪,引くよ.姉さん.」
お風呂上りの石鹸の匂いが,弟から漂う.
テーブルの上のリモコンを取って,私はテレビの電源を消した.
「部屋で寝る.お休み.」
ふと,パジャマの胸元が開きすぎているような気がして,私は落ち着かなくなった.
「お休み.」
弟の声を背に受けて,居間から出る.

この家は,息苦しい.
廊下を歩くと,再婚したばかりの父母の部屋から,すすり泣く声が聞こえた.
一度は離婚を選んだ父母は,つい三ヶ月ほど前に再婚した.
私が幼稚園に通っていた頃に別れた,父と弟は見知らぬ他人のような顔で戻ってきた.
――あなたたちは,誰?
「ずっと会いたかった.」と泣かれても,「久しぶり,姉さん.」と微笑まれても.

翌朝,会社へ向かう父とともに,二人きりで朝食のパンを食べた.
弟は居ない.遠い私立の中学校に通っているから,いつも朝は早いのだ.
母も居ない.なので,普段は用意されているはずの卵とベーコンも無い.
私は何も聞けずに,父より先に家を出た.

五日後,父と母は喧嘩を始めた.
私は恐ろしくて,何もできずにただ夕食の席に座り続けた.
すると隣に座っていた弟が,私の手を引いて居間から連れ出してくれた.
弟の部屋に入り,きっちりとドアを閉めて,父母の言い争う声を消して.
そこでやっと,私の体は金縛りから解けたように震えだした.
かたかた,かたかたと.
目から涙が溢れ出して,けれど泣き声を上げるような主張はできずに.
私は,泣いた.
弟は,私を見ていた.

「姉さん,」
どれだけ泣いた後か,弟が言った.
「あなたは,嘆き悲しむことしかできない.」
その通りだと,私は思う.
私は,泣くことしかできない.
泣いているのだと,叫ぶこともできない.
「けれど,僕は違う.」
弟の手が伸びて,私の頬を包み込む.
「僕は,僕が望むものを手に入れるために,努力することができる.」
まるで麻酔をかけられたように,しびれて動けない.
血のつながりのある弟の目に,火が灯る.
いつかこの身を灼く炎を見つめて,私はゆっくりと目を閉じた.

四年後,私は母と二人で暮らしていた.
私は地元の小さな会社に就職し,母は,今度こそ母を幸せにしてくれる男性とめぐりあえた.
仕立てのいいスーツを着た彼は,母のすべてを守ると誓ってくれた.
だから私は,家を出るための準備を始めた.
母は,もう泣かない.
私は,誰からも必要とされない.

部屋で,荷物をダンボールに詰める.
子供の頃のアルバム,実父からもらったぬいぐるみ,お気に入りのマグカップ.
居間からは,明るい笑い声が聞こえる.
あの,初めて口付けを交わしたソファーで,母と優しい義父がくつろいでいる.
ガムテープで封をしていると,玄関のチャイムが不躾に鳴った.
扉を開いて,そこに見知らぬ青年を見つけたとき.
弟は再び他人の顔で現れて,私を連れ去った.

||| ホーム |||


Copyright (C) 2003-2006 SilentMoon All rights reserved. 無断転載・二次利用を禁じます.