「姫様,ラーラ王国からの伝書です.」
砦の会議室でつい,うとうとと机に突っ伏していたリルカに,一人の兵士が遠慮がちに呼び掛けた.
「ごめんなさい,何?」
リルカは赤い目でにっこりと微笑んでみせる.
けれど両目をごしごしと拭う仕草が,兵士に幼い印象を与えていた.
「要約すれば,……もう兵の援助はできない,結婚も辞めにしたいです.」
「そう…….」
瞳を伏せて,リルカはそっけなく答える.
しかしそれに対して,兵士は一人で憤慨した.
「都合がよすぎませんか!? 兵を貸してやるから姫様をくれと言っていたくせに,魔族が怖いからやっぱり辞めるなんて!」
ふと兵士はリルカが悲しげに微笑んでいることに気付いて口を告ぐんだ.
俯いて,しかしまた兵士は話し出す.
「姫様,少し休んでください.」
少し驚いた顔をするリルカに向かって言い募る.
「魔族が来たらすぐに知らせますし,タケルの看病だって我々がしっかりとみますから.」
するとリルカはふんわりと微笑んだ.
「ありがとう…….ちょっとだけタケルの様子をみてから休むわね.」
健が魔王に刺されて重症を負ってから3日が過ぎていた.
健の意識はまだ戻らない.
ときどきうわごとのようにリルカの名を呼ぶだけだ.
そして健の首にかかっている水晶のペンダントが割れていた.
城の大水晶が魔族の襲撃によって割れたのだから当然なのだが…….
これで健はもはや世界を渡ることができない.
リルカは廊下を歩きながら,堅く両拳を握り締めた.
健に向かって故郷へ帰れと言いながら,帰らないでと心の中で叫んでいる.
なんと自分はエゴイスティックな女なのだろうか!
……ずっとそばに居て欲しい.
こんな甘えた自分は大嫌いだ.
健の部屋に入ると,リルカの友人でもあるアリアが健の看病をしていた.
「姫様,休んでいてください.」
心配そうにアリアは,リルカのやせてしまった頬を撫でる.
「目が真っ赤ですよ.」
優しくいたわってくれる幼馴染に対して,
「ごめんなさい,少しだけタケルのそばに居させて.」
リルカはかすかに微笑んだ.
「そうしたらすぐに休むから.」
その微笑みは何よりも恋する女のものだった…….
アリアはそっと自分の大切な姫君を抱きしめた.
「余りご無理をなさらないでくださいね.」
リルカの柔らかな桃色の長い髪を梳いてやる.
「タケルみたいなずうずうしい奴,そうそう簡単にくたばりませんから.」
あの日,この髪に少年の血がこびりついていたのだ.
アリアが部屋から出てゆくと,リルカは健の枕もとに置いてある椅子に腰掛けた.
そっと健のこげ茶色の髪を撫でてやる.
確か去年かおととしあたりに健の髪は黒からこげ茶になったのだ.
「高校に入ったし,髪の毛を染めたんだ.」
不思議そうな顔をするリルカに向かって笑いかける.
「かっこいいだろ! ちゃんと美容院でやったんだぜ.」
「どうして?」
リルカはきょとんとした.
「漆黒の髪の方が珍しいし,素敵なのに…….」
すると健は頬を染めて,リルカの顔を見返してきたのだった.
あのとき,自分が刺されればよかったのだ.
伝承の通りに…….
そうすれば健は必ず魔王を封印してくれただろうに.
「……リルカ.」
健の口から言葉が漏れる.
またうわごとだろうかとリルカがみると,健がリルカに向かって微笑んでいた.
「タケル…….」
恋人の優しい微笑みに涙がこみ上げそうになる.
「よかった,意識が戻ったのね.」
顔を近づけると,リルカは乱暴に髪を取られた.
健はリルカの髪を引っ張って顔を寄せ,唇に軽く口付けると,
「やっと取り戻した…….」
安心したように再び眠りに落ちた.
砦の見張り台に立って,ファンとユーティは無言だった.
普段はこのコンビでいる.
小柄な16歳のユーティと大柄な22歳のファンで,まさにでこぼこコンビだ.
夏の間だけ健が加わってトリオになるのである.
「タケル,助かるよね…….」
魔の森を眺めながら,ユーティは隣に立つ歳の離れた友人に聞いた.
「一応,急所は外れていた.」
ファンは静かに答えた.
「なぁ,ユーティ.なんか変じゃないか?」
視線を魔の森に固定しながら,ファンは眉をひそめる.
「なにが?」
ユーティはきょとんとして問い返した.
「……気配が,魔の森に魔族たちが居る気配がないような気がする.」
ファンは親指を唇にあてて,ひとりごちる.
ファンとユーティはさっそくそのことについて,壮年の将軍イオンに報告してみた.
ついで,二人で魔の森に偵察に行きたいとも言ってみる.
「……しかし,」
イオンは二人の提案に渋った.
起き上がれない健,つい先日まで魔王に捕らわれていたリルカ.
イオンとしては,今はあまり魔族を刺激したくないのだ.
「絶対に見つからないように行動しますから.」
結局押し切る形で,二人は将軍の了解を得た.
アリアが健の部屋からなかなか出てこないリルカを迎えに行くと,リルカは健の枕もとに突っ伏して眠っていた.
リルカの薄桃色の髪を健がしっかりと握っている.
「だからタケルは嫌いよ.」
アリアは肩を竦めて笑った.
「みんなの姫様を独り占めしたがるんだもの.」
次の日の早朝,ひっそりとファンとユーティは旅立った.
魔族に見つからないように徒歩で魔の森まで行くには,片道2日から3日程度かかる.
「くれぐれも無理はしないように.」
イオンはしっかりと二人に言い含めた.