水底呼声 -suitei kosei-
13−3
みゆの妊娠に,マリエは気づいていたらしい.
城の食堂でともに昼食を食べながら,バウスは婚約者の洞察力に恐れいった.
「いいえ,気づいたのは私ではなく祖母です.」
マリエはあっさりと訂正する.
「ミユの体調が悪いので,祖母はずっと疑っていたのです.」
けれどみゆが未婚なので,口には出さなかった.
しかし彼女が大神殿へ行ってから,とうとうマリエに相談した.
「ミユを連れ戻し医者に診せるように,祖母は訴えました.ですが私は反対しました.」
マリエは,皿の上にある子牛の肉にナイフを入れる.
「なぜなら,妊婦は神の塔に入れない.」
肉を口に運んだ彼女に代わって,バウスは言った.
「ただの言い伝えと思いきや,まさか本当に入れないとは.」
塔に入れずに,びっくりしていたみゆの姿が思い出される.
「それに医者に関しても,大神殿の方がいい医者がいるでしょうから.」
「確かに.」
バウスはレモン水を飲む.
「ただ,ミユが妊娠していなかった場合,神の塔に入るのを止める必要がありました.」
彼女は呪われた王国が救えないと失望して,ヤケを起こして塔に入ろうとした.
きっと塔から出た後で,腹の中の赤ん坊に後悔しただろう.
妊娠は,安易な気持ちでやっていいことではないのだ.
「だから殿下に,スミとともに大神殿へ足を運んでもらったのです.」
「なるほど.」
いきなり,とんとんとん! と性急なノックの音が響いた.
「何だ?」
バウスとマリエは食事の手を止めて,いすから立ち上がる.
両開きの扉が勢いよく開いて,
「お食事中,申しわけございません.」
「兄さま,姉さま,大変なことが起こったの.」
汚れた姿のスミとセシリアが入ってくる.
そして,
「ライク!?」
カリヴァニア王国へ旅立った弟の姿があった.
バウスは動転して,弟に駆け寄る.
「ひさしぶりです,兄さん.」
ライクシードが照れたようにほほ笑む.
「俺は夢を見ているのか?」
「夢ではありません.重要な話がありますから,どうか人払いを.」
バウスは笑った.
「人払いは必要ない.紹介しよう,俺の婚約者であるマリエだ.」
「婚約者? ――え? マリエ!?」
弟は目を丸くする.
マリエはずっとメイドとして,バウスに仕えていた.
当然,ライクシードとも顔見知りである.
「おひさしぶりです.」
マリエはあいさつしたが,弟は相当に驚いたのか,口をぽかんと開けている.
バウスは遅まきながら,スミとセシリアが包帯を巻いていることに気づく.
「何があった?」
スミは,部屋の扉が閉まっていることを確認してから,しゃべった.
「結界が消失しました.神聖公国を守る結界すべてが,です.」
一瞬,頭の中が真っ白になった.
だが徐々に景色が戻ってくる.
ライクシードがここにいるのは,結界がなくなったから.
今,神聖公国は丸裸だ.
「ミユか?」
もっと彼女を警戒すべきだった.
バウスが自分の甘さを呪っていると,
「いいえ,ラート・ユリです.」
スミが否定する.
「彼女は,神聖公国から出て行ったはずだ.」
それとも,外側から結界を破壊できるほどに強い力を持つのか?
「ユリは,神聖公国とカリヴァニア王国をつなぐ洞くつの中で,結界をやぶったのです.」
ライクシードが口をはさむ.
バウスは,あぜんとした.
洞くつ内部は盲点だった.
「何のために,結界を壊したのですか?」
一瞬,思考停止に陥ったバウスに代わって,マリエが問いただす.
「ラート・ユリは,故郷のニホンへ帰るために大神殿から去ったと,私たちは聞きましたが.」
とっくに異世界に帰っていると,バウスも思っていた.
「私を神聖公国へ帰すために,やったらしい.」
ライクシードが落ちこんだ様子で答える.
「は? なぜユリがお前を?」
バウスはたずねた.
ところが弟は口を閉ざす.
スミもセシリアも,気まずそうな顔で黙る.
答が返ってこないことで,バウスは答を知った.
百合はライクシードに恋をしている.
異世界の女性にも,――みゆは例外だろう,弟は大人気というわけだ.
バウスは納得したところで,話の方向を変える.
「セシリア,結界はきれいさっぱりなくなったのか?」
「えぇ,跡形もないわ.だから二年前みたいに,修復はできない.」
少女の青い瞳には,強い危機感が映っている.
「ウィルも,自分の力では無理と話していたわ.そして,ルアン様やサイザー様にも不可能だと.」
「ウィル? あいつもこの国に来たのか?」
「はい.ミユさんと一緒に,大神殿に戻っています.」
スミが報告した.
「ラート・ルアンは?」
百合を神聖公国から連れ出したのはルアンだ.
今も彼女のそばにいると思うが.
「洞くつにはいませんでした.もしもいたら,ウィル先輩を守るために何かやったでしょう.」
何もなかったのでルアンは確実にいなかった,と少年は主張する.
「ユリはどこへ行った? 逃げたのか?」
「ミユさんたちが大神殿に連れていきました.力の使いすぎで,体調がかなり悪いようです.」
「ユリは当分の間,何もできないわ.今日一日は寝たきりじゃないかしら.」
セシリアが補足説明をした.
バウスは,そうかとだけ口にした.
何もできないでいる間に,彼女には死んでもらおう.
百合の能力は危険すぎる.
結界の破壊以外に,さらに神聖公国にとって不利益なことをやる可能性がある.
加えて聖女に関しても,サイザーが存命であり,百合の娘である桜もいる.
百合を生かし続けるだけの利点はない.
「結界の崩壊を知っているのは,お前らだけか?」
バウスは質問を再開した.
「いいえ.神の一族ならば,すぐに分かる.たとえ神の一族でなくても,敏感な人なら分かるわ.」
少女がしゃべる.
「風のにおい,温度,湿度,鳥や馬の鳴き声,いろいろなものが今までとはちがっている.」
ささいな変化だけど,と付け足した.
「ということは,少なくとも全国各地の神殿で大騒ぎになっているな.」
そのうちに,首都神殿あたりから城に連絡が来るだろう.
「ほかに伝えることは?」
今度はスミが,
「禁足の森の洞くつは,完全に崩れ落ちました.もはや誰も通れません.」
「分かった.もう警備する必要はないな.」
状況はあらかた理解できた.
平静ではいられないが,平静でいなくてはならない.
結界がなくなった.
恐れていた日が,ついに来た.
スンダン王国との国境では,すでに戦端が開かれているだろう.
バンゴール自治区やラセンブラ帝国との国境でも,二,三日中には攻防戦が始まる.
水の国との国境では,難民たちがなだれこんでくる.
だが神聖公国には,もともと難民支援をしている者たちがいる.
なので,あまり混乱していないのかもしれない.
ただし,これらはあくまでバウスの想像だ.
国境地帯の情報を,早急に手に入れなくてはならない.
それまでは最悪の事態,――神聖公国は四方八方から攻められていると想定して,行動すべきだ.
「スミ,セシリア,お前たちは医者に行け.まだきちんと治療を受けていないだろう?」
おそらく彼らは洞くつの崩壊に巻きこまれて,体が汚れて,けがまでした.
よく見ると,スミは重症らしく顔色が悪い.
しかし傷の手当てよりも,バウスへの報告を優先したのだろう.
「ライク,お前は体をきれいにしてから,親父に顔を見せてやれ.」
弟に命令する.
「結界がつぶれたことを,できるだけ優しく教えてやってくれ.」
父は息子の帰還に歓喜した後で,結界の消滅を聞いて卒倒するにちがいない.
「俺が国を守る.」
バウスはこぶしを握りしめて宣言する.
「結界が駄目になっても,俺がいるから安心しろ.」
けれど両手は震えていた.
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