水底呼声 -suitei kosei-
11−17
ウィルとともに宿の部屋に入ると,みゆの頭は移住のことでいっぱいになった.
みゆは,国王がそんなことを考えているとは,予想していなかった.
だが落ちついて思案してみると,一番現実的な方法だった.
「ねぇ,ウィル.」
ウィルはじゅうたんの上に座って,針で繕いものをしている.
器用な手先で,みずからの衣服はもちろん,みゆのものまで修繕する.
今,ぬっているものは,みゆのスカートだ.
「カリヴァニア王国には,十万人以上の人が住んでいるのよね?」
みゆはベッドに腰かけて,ウィルの横顔を眺めていた.
そうだよ,と彼は肯定する.
たやすく移動できる人数ではない.
高校の修学旅行でさえ,大変な騒ぎだった.
修学旅行はせいぜい三百人程度だったが,今回は十万人だ.
さらに,
「若者ばかりじゃない,お年寄りや子どももいる.」
病人やけが人や妊婦もいるにちがいない.
いや,長い旅の間で病気やけがになるかもしれない.
加えてホテルに泊まるわけでも,道中にコンビニやレストランがあるわけでもない.
ドナートは,移住先はどこでも構わないと言っていた.
けれど本当は,アテがないのだろう.
住み慣れた土地を離れて,いずこへ向かうのか.
移住は,これ以上はないほど困難だ.
不可能と判断してもいい.
「ミユちゃん.」
ウィルは,針と糸を小さな箱に片付けた.
「そういうことを考えるのは,国王陛下の仕事だよ.」
みゆは,あいまいにうなずく.
彼はみゆの隣に腰かけた.
「君の仕事は,カリヴァニア王国と神聖公国を行ったり来たりすること.」
ドナートの手紙を神聖公国の国王に届け,返事を受け取ってカリヴァニア王国に帰る.
そしてまた,手紙を持って神聖公国におもむく.
場合によっては,神聖公国以外の国にも足を運ぶ.
ドナートは,地理的に近い水の国の方が移住しやすいのではないかとも語っていた.
「僕は一緒に行けないから,洞くつをくぐったらスミを頼って.」
真剣な面持ちのウィルに,みゆは「うん.」と答えた.
彼の瞳の奥に,複雑なものが去来する.
「前々から気になっていたのだけど,」
不機嫌そうにまゆをひそめる.
「なんでライクシードを名前で呼んでいるの?」
「へ?」
予想外の質問に,みゆは声を上げた.
それは彼から,殿下と呼ばないでくれと頼まれたからだ.
しかし,このことはウィルには話しづらい.
そもそもウィルだって,以前は王子様と呼んでいたのに,今は親しげな呼び捨てだ.
「ついでに,なんでライクシードに百合の件を頼んだの?」
ウィルよりも彼の方が,百合に優しく接すると思ったから.
ところが,これまたウィルには告白しづらい.
みゆが困っていると,彼はにっこりとほほ笑んだ.
「君は僕だけが好きで,ライクシードは“素敵なお兄さん”でしょ?」
みゆは目をぱちくりさせる.
確かに,二年前に神聖公国で再会したとき,みゆはウィルにそう告げた.
私は王子の恋人とうわさされているけれど,不安になる必要はないという意味で.
こんなことを言うとは,今のウィルはみゆがライクシードと仲よくしても不安にならないらしい.
それは寂しいが,恋人がどっしりと構えて余裕があるのは頼もしいことでもある.
みゆは言葉で伝える代わりに,彼の両肩に両手をのせてキスをした.
すると背中に腕を回されて,ベッドに押し倒される.
驚くみゆに,ウィルはなまめかしい笑みを見せた.
「今は口づけだけじゃ満足できない.」
そして強引に,みゆの服をはいだ.
翌朝,みゆとウィルとルアンは,元娼館であるウィルの家を訪問した.
玄関から食堂に入ると,エーヌが出迎えてくれる.
朝食は,彼女のおいしい手料理だ.
腹がふくれた後で,ウィルはルアンに相談があると言い,二人で二階に上がった.
残されたみゆとエーヌは,のんびりと食後のお茶を楽しむ.
彼女はその席で,カイルは,娼婦であった自分の客だったと打ち明けた.
彼を介して,エーヌはウィルと知り合ったらしい.
当然のことながら,ウィルが娼婦を抱いたことは一度もないと話す.
娼婦という単語から連想されて,みゆはふと思い出した.
ウィルに化粧や女装を教えたのは,エーヌである.
いつか忘れたが,ウィルが「エーヌさんがやったことを,自分でやってみた.」としゃべっていた.
「ウィルの女装は,かわいかったですよ.」
エーヌは,飲んでいたお茶をむせる.
「あの子に変なことを教えて,ごめんなさい.」
動揺した様子で,謝罪した.
みゆはあわてて「謝らないでください.」と口にする.
「ウィルの変装は,ものすごく役に立ちましたから.」
神聖公国で,スカートをはいたウィルを,少年と見やぶることのできた人はいなかった.
「女の立つ瀬がないほど,かれんでした.」
エーヌは,両目を細めて笑う.
「あなたは,とてもきれいよ.」
美人にほめられることほど,恐縮するものはない.
みゆが否定しようとしたとき,玄関から,こんこんと扉をたたく音が響いた.
音が大きいのは,扉に取り付けられたノックするための飾り金具を利用しているからだろう.
「あら? 誰かしら.」
エーヌは立ち上がった.
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