水底呼声 -suitei kosei-
8−10
馬車が城へ帰り着くと,玄関の外では,若草色の髪の少年が一人で待っていた.
白地に銀のししゅうが入った,親衛隊の制服を着ている.
服が大きすぎるようで,すそを折り曲げていた.
「おかえりなさい,ミユさん,ウィル先輩!」
明るい笑顔に,みゆの心はほっと休まる.
「ただいま,スミ君.」
「おい,スミ.」
バウスが,わざとらしいほどに,おどけた声を出した.
「お前は俺を迎えに来たのだろう? 無視するんじゃない.」
少年は,うっと言葉に詰まる.
「おかえりなさいませ,バウス殿下.」
見事な棒読みだった.
「敬意が足りないな.」
王子は笑い,みゆもかすかにほほ笑んだ.
翔も不器用に笑う.
「ほかのやつらはどうした?」
バウスがたずねると,スミは少し迷ってから答えた.
「子どもじゃないのだから,殿下の迎えは新人一人で十分と言って,消えてしまいましたよ.」
「敬意が足りないのは,一人だけではないらしい.」
王子は肩をすくめる.
彼の親衛隊は,ずいぶんと自由な雰囲気のようだ.
ふとスミが,みゆの顔をのぞきみた.
「顔色が悪くないですか? 馬車に酔いましたか?」
心配そうに,まゆをひそめる.
「うん.」
みゆはあいまいに返答する.
「出発は,明日にしてはどうだ?」
バウスが提案した.
「え? でも,」
みゆは言いよどむ.
予定では,これから一休憩して王国へ帰るつもりだった.
旅の支度も済んでいる.
それに王子は,みゆたちをさっさと国から追い出したいのでは?
「こんな顔色の人間を出発させるほどに,俺は非道じゃない.」
バウスはぶぜんとして言った.
「悪いけれど,俺も休みたいよ.」
翔が言い添える.
みゆのために言ってくれたのだろうが,実際に彼の顔も疲れていた.
「ありがとう,柏原君.お言葉に甘えます,バウス殿下.」
みゆは,にこりと笑みを見せた.
城を出て,カリヴァニア王国へ続く洞くつをくぐると,しばらくは山中を歩くことになる.
旅のことを考えると,万全の体調で出発した方がいい.
でないと,ただでさえみゆは足手まといなのに,さらにもっと足を引っぱってしまう.
「部屋に戻ろう,ミユちゃん.」
いたわるように肩を抱くウィルにうなずいて,みゆは城の中へ入った.
バウスが二人の後姿を見送ると,
「俺も戻ります.」
翔は言葉少なに言って,城の中へ歩いていく.
彼の足取りは重く,かける言葉がなかった.
百合の妊娠に対して,何らかの責任を感じているのだろう.
彼女の狂乱は,バウスにとっても翔にとっても恐ろしかった.
ものを投げられ,悲鳴のような言葉を浴びせられ,助けてくれとすがりつかれ.
儀礼どおりの祝辞を述べるどころではなかった.
お人よしで無力なみゆには,会わせられない.
スミが,問いたげな視線を送ってくる.
この少年は,鈍感ではない.
バウスたちの様子がおかしいことに気づいている.
バウスは,ついて来いと目で合図して,城の中へ足を進めた.
廊下を歩きながら,ぽつりぽつりと事情を話す.
執務室にたどり着くと,部屋の掃除をしていたメイドたちが,頭を下げて出て行った.
扉が閉まった後で,スミが口を開く.
「この場合,セシリアはどうなるのですか?」
不安そうに質問を発した.
自分と同じ心配をした少年を,バウスはうれしく思う.
「大丈夫だ.セシリアは二度と,神殿に渡さない.」
バウスとスミにとって不都合なことは,セシリアが再び聖女にされることだ.
百合が務めを放棄すれば,少女に役目が戻ってくる.
それだけは避けたかった.
ライクシードがいなくなった今,セシリアはバウスにとって失えない存在だった.
神殿の中で聖女として育ったために,少女は自覚できていない.
だが,バウスには分かった.
少女の瞳は,若草色の髪の少年を追いかけている.
いや,その視線に気づかなくても,あれだけひんぱんにスミのことをしゃべられては,嫌でも分かる.
だから先回りして,少年を騎士に仕立て上げた.
二人が手を取りあって王国へ行くことも,別れを告げずに去ったスミをセシリアが追いかけることも,どちらもバウスには耐えられないことだ.
だからみゆに,頭を下げた.
「スミを城に残してほしい.」
俺から,セシリアまで奪わないでくれと.
「自分の意志で聖女になったのだから,今さらやめたいと言われても困る.」
百合は,もはや引き返せない.
彼女のおなかの中の子どもは,神聖公国の至宝.
すべての国民が待ちに待った次代の聖女.
彼女の一存で決められるほどに,子どもの命は軽くない.
そして,勝手に子どもとともに故郷へ帰られても困る.
もしもみゆが百合を大神殿から連れ出すならば,バウスは全力で止めなくてはならない.
いや,神聖公国の全国民が死にもの狂いで,彼女の行動を阻止するだろう.
場合によっては,スミもみゆと対立する.
その子どもは百合だけのものではなく,神聖公国のための子どもなのだ.
あと何か月かたち,彼女のおなかが大きくなれば,正式に国民に対して告知する予定だ.
そうすれば,国中がお祭騒ぎになる.
なんせ約三十年ぶりの,聖女の妊娠なのだ.
どれほどの大きさの,喜びと安堵が駆けめぐるのか.
すでに,首都に住む耳の早い商人などは,祝いのための酒を大量に仕入れていると聞く.
「この話は,セシリアにはしないですよね?」
スミが確認するように問うた.
「当然だ.お前も悟られないようにしろよ.」
百合に聖女になるように勧めた少女が,罪悪感で苦しまないように.
「はい.」
しっかりとうなずいた少年の頭に,バウスはぽんと手のひらをのせる.
「何ですか?」
少年は,ぽかんとした.
バウスは苦笑する.
どうやら自分は,スミのことを結構気に入っているらしい.
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