水底呼声 -suitei kosei-

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  6−1  

四つある食卓の席が,すべて埋まっていた.
みゆの隣にはウィル,向かいにはスミ,そしてはす向かいにはルアンが座っている.
四人は黙々と,朝食の乾パンと干しブドウを食べていた.
昨夜遅く隠れ家に帰りついたみゆたちは,疲れをいやすためにすぐに眠りについた.
ルアンが,隠れ家が見えるけれど認識できなくなる魔法をかけてくれた.
これで誰も,この家を訪れることはできなくなると言う.
家が視界に映っても,意識を向けられないのだから.
ルアンは,ウィルが知らない魔法をたくさん知っている.
この魔法のほかにも,さまざまなものがあるそうだ.
「ウィル,」
朝食を終えると,ルアンが口を開いた.
聞き慣れると,彼の声はウィルよりも低いことが分かる.
「何,お父さん?」
お父さんという呼びかけに,ルアンは顔をでれっと崩したが,すぐに表情を改めた.
「僕は大神殿へ帰るよ.」
「え?」
みゆは驚く.
「大神殿へ戻っても,大丈夫なのですか?」
厳しい処分を受けたり,殺されたりしないのだろうか.
「大丈夫だよ.」
ルアンは,にっこりとほほ笑む.
「僕はラートの末えいだからね.ラートの末えいが,サイザー様と僕とウィルしかいない以上,誰も僕らを害せないよ.」
いわゆる“本当”の聖女は,三人しかいない.
「サイザー様も冷静になれば分かるさ,僕とウィルを殺せるわけがないと.」
ルアンは苦笑した.
「だから僕は帰るよ.リアンのそばにいたいし,結界を守るという約束もあるから.」
墓が,大神殿の近くにあるのだろうか.
彼の瞳は,遠い過去を見ていた.
「でも,困ったことがあれば,」
「ないよ.」
そっけなくウィルが答えて,ルアンは目に見えてがっかりする.
「僕は必要ないかもしれないけれど,迷惑なだけかもしれないけれど,うっとおしいと思われているかもしれないけれど,必ず助けに行くよ.」
子どもがいじけたように言うので,みゆは「ありがとうございます.」と少年の代わりに礼を述べた.
「それじゃ,たまには遊びに行くよ.」
気を取り直して,ルアンは席から立ち上がる.
そうして,ごく普通の人のように玄関の扉から出て行った.
そんなに堂々と,街を歩いていいのだろうか.
みゆはそう思ったが,彼の顔は街の住民には知られていないのだろう.
「行っちゃいましたね.」
肩透かしをくらったように,スミがつぶやく.
「うん,行っちゃったね.」
みゆはうなずいた.
彼はもっと,ウィルのそばにいたいだろうと思っていたのに.
いや,大神殿からみゆたちを逃がしたときから,彼は身を引いて見守ることを選んだのかもしれない.
「それじゃ,僕は城へ行くよ.」
おそらく無意識に,父親と同じ調子で黒の少年はしゃべった.
「今からですか?」
「うん.カリヴァニア王国の使者が見たいから.」
そうだ,地球の人間が神聖公国へやって来たのだ.
いったい,どのような人物たちなのだろう.
「駄目ですよ,先輩.」
若草色の髪の少年は反対した.
「今日は朝から,動きが鈍いです.昨日までの疲れが残っているのじゃないですか.」
「そうなの,ウィル?」
少年の不調に,みゆは気づかなかった.
顔をのぞきこむと,
「ちょっとだけだよ,調子が悪いのは.」
ばつが悪そうに,目をそらす.
「偵察には俺が行ってきます.先輩たちは,お留守番をしてくださいね.」
妙に勝ち誇った顔で,スミはいすから立ち上がった.
そしてさっさと階段を上がっていく.
少年たちは二階の窓も,出入り口だと考えているらしい.
みゆとウィルは,二人きりで部屋に残された.
食事の後片づけをするかと,テーブルに手をついて立ち上がろうとすると,
「ミユちゃん,」
隣の席から,するするっと手が伸びる.
みゆの短くなった髪をつまんで,
「何があったの? 誰かに切られたの?」
問いかける少年の顔が真剣なので,どきっとした.
「自分で切ったの.」
この髪について,ウィルに何も言われていなかった.
二人きりで落ちついて話ができる機会を,待っていたのかもしれない.
少年は静かに,目を伏せた.
「ごめんね.」
少年の声は,なぜ髪を切ったのか分かっているようで.
「あのね,ウィル.」
みゆは正直に,自分の気持ちを話そうと決めた.
「実は気に入っているの.」
二,三度まばたきをした後で,恋人は甘く瞳を細める.
「似合っているよ.」
「ありがとう.」
ちゅっと軽く耳たぶにキスをされて,みゆは笑った.
髪をここまで短くしたのは初めてだった.
ハサミを髪に入れたときは悲壮な気分になったが,案外ショートカットは気持ちがいい.
髪が邪魔にならないし,頭は軽い.
「後で切りそろえてあげるよ.」
「うん,よろしく.」
そしてウィルはそっと,みゆの体を離す.
にっこりとほほ笑むのだが,壁を作られているように感じられた.
ルアンのことで,まだ心の整理がついていないのだろうか.
少年にとっては,自身の存在を根底から覆す出来事だったにちがいない.
「ミユちゃん.」
黒色の目は寂しそうだった.
「今夜は,自分のベッドで休むよ.」
「え? なんで?」
昨夜,ウィルはみゆのベッドで,みゆと一緒に眠った.
ルアンにベッドを貸したためにそうなったのだが,みゆはずっとこのままで構わなかった.
「一緒に寝ようよ.ベッドがせまいわけじゃないし.」
むしろウィルに離れられる方が嫌だ.
意味がないことだと分かっていても,少年をルアンに取られたような気分になっていた.
すると恋人は,奇妙な表情になる.
みゆの顔をじっと見つめて,
「誘っているの?」
と,首をかしげた.
みゆはそのせりふを理解するのに,五秒ほどかかった.
とたんに,頭がどかんと爆発する.
「ちがう! そういう意味じゃない!」
あわてて否定する.
「なら,僕から誘うよ.」
少年は楽しそうに笑った.
「今夜,君を抱いていい?」
夕食の献立はどうする? ぐらいの気軽さだった.
一方のみゆは,はい,どうぞなんて簡単に返事できない.
女性の口から言わせないでほしいというか,わざわざお伺いを立てないでほしいというか.
むしろ,その場で聞いてくれる方が助かるのに.
そこまで考えて,気がついた.
みゆの結論は,すでに出ている.
月のものの関係で断ることはあっても,それ以外で断ることはない.
突然すぎる申し出に,とまどっているだけだ.
「ウィル,」
どう返答すればいいのだろう.
露骨に「いいよ.」だなんて,さすがに恥ずかしい.
「君が嫌なら,指一本触れないよ.」
少年は,にこにこと笑う.
確かに,ウィルはずっと紳士的だった.
おかげでみゆは,すっかりと油断していた.
昨夜なんて当たり前のように腕枕をされて,ぐうぐうと眠っていた.
思い返せば思い返すほどに,ずいぶんと子どもっぽい振る舞いをしていたのではないだろうか.
「どちらでもいいから,答をちょうだい.」
ウィルにしては珍しく,返事を急かす.
よく見ると,黒の瞳が不安そうに揺れている.
多分,ものすごく勇気を出して,さっきから聞いてくれているのだ.
「あの,」
答えようとして,みゆはむなしく口をぱくぱくとさせた.
顔に熱が上がってしまって,言葉にならない.
恥ずかしくて,恥ずかしくて.
みゆは言葉で答える代わりに,少年の体に腕を回して,ぎゅっと抱きしめた.
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