水底呼声 -suitei kosei-
4−3
「スミ!」
黒の少年は小さく叫んだ.
スミが腹を刺された,しかも深く.
すぐに手当てを,
「すきを作るな,ウィル!」
駆け出した瞬間をねらわれた.
気づいたときには,カイルの剣が首もとまで迫っている.
ウィルは無理やり横に倒れて,切っ先を避けた.
だが無様に倒れたために,起き上がれない.
振り下ろされる銀のやいば.
体を転がせて,少年はなんとか危地を脱出した.
「こんなにも友人思いになったとはな.」
地面に刺さった剣を抜いて,カイルはいらだった顔をしている.
「お前は黒猫だ.人間らしい感情は不要なものだ.」
土に汚れた体で,ウィルは立ち上がった.
傷を負った両腕が,ずきずきと痛む.
スミの状態が気にかかるが,カイルから視線を外せない.
これほどまでに余裕のない戦いは,初めてだ.
カイルとは,すでに一昼夜以上戦い続けている.
「スミが死ねば,ミユちゃんが悲しむ.」
ウィルはつぶやいた.
カイルの顔が奇妙にゆがむ.
僕は変わった,変わってしまった.
カイルがウィルを殺そうとするのは,少年が王国を裏切ったからではない.
呪われた黒猫に許される限度を超えたのだ.
誰よりもけがれた道を進まなければいけなかったのに.
神に,近づきすぎた.
――みゆ.
その名を呼んだとき,少年は確かな存在を感じた.
ときが止まる.
ここにいるはずのない女性の影を見つけて.
血を流し倒れるスミのそばで,彼女は蒼白な顔をして震えていた.
「ウィル,」
漆黒の瞳が,少年をとらえる.
ウィルは走った!
神聖公国へ続く洞くつから,光があふれ出る.
「なんだ,これは!?」
不可解な現象に,カイルはおののく.
けれど少年には分かった.
みゆがウィルたちを逃がすために,内側から結界をやぶろうとしている.
ウィルは,剣が刺さったままのスミを抱き上げた.
カイルが投げてくるナイフをかいくぐり,光の中に頭から飛びこむ!
どぼんと水の音がして,結界に穴が開く.
なんて力だ.
一瞬だけ,みゆの強大な力に恐れを覚えた.
ウィルは,不思議な水中に入る.
離れてしまわないように,スミをしっかりと抱えなおした.
「待て!」
続いて入ってきたカイルが,手を伸ばす.
「お前は神聖公国へ帰ってはならぬ!」
しかし水の流れが,彼を引き離した.
あっという間に,カイルはいなくなる.
「師匠……,」
ここは,みゆの世界だ.
ウィルたちを守り,カイルを追い返す.
水中だというのに呼吸ができて,暖かくも冷たくもない.
スミに刺さっていた剣は,ぐにゃりと溶けて消えた.
ウィルは服を脱がせて,傷の具合を確認する.
――少しだけ,ふさがっている.
ウィルの腕の痛みも和らいでいた.
スミの服を直してから,
「ミユちゃん!」
彼女の名前を呼ぶ.
「どこにいるの?」
みゆの心は,この世界の中にいる.
ウィルは眠るスミを片手に抱いて,水中を泳いだ.
水面には,月の影が映る.
底に目をやると,異常な世界が広がっていた.
土も草もない,魚などの動物も見当たらない.
代わりに,巨大な建造物がいくつもあった.
ウィルが今まで見たことがないほどに背が高く,整然と並んでいる.
人間ができる技ではない,神があれらを作ったのだろうか.
少年は,橋の上でたたずむ彼女を発見した.
日本の空を泳ぐ一匹の黒い魚を,みゆは歩道橋の上で眺めていた.
右手には,通っていた予備校のビルがある.
左手には,スポーツジムなどの入ったビルとバッティングセンター.
そこから駅まで道が伸びて,ゲームセンターやファーストフード店が並ぶ.
街の上に浮かぶ月が,ゆらりと揺れる.
息苦しさを覚えながら歩いていた街が,海に沈んでいた.
黒い魚,――ウィルは駅の方向からやってくる.
近づくと,スミを連れているのが分かった.
「ウィル,スミ君!」
手すりから身を乗り出して,みゆは呼びかける.
ウィルはみゆのそばに着地して,スミの体を慎重に横たえた.
腹部に刺さっていたやいばは消えて,少年は静かに眠っている.
「傷は……?」
希望的観測かもしれないが,顔色がよくなっている.
「深いよ.でも僕に任せて.」
ウィルは,みゆをそっと抱きしめた.
「必ず助けるから.」
その抱き方が優しくて,頭をなでてくれる手が暖かくて.
「ウィル,」
もう我慢できない.
神聖公国へ行ってから,ずっと気を張っていたのに.
「怖かった.」
少年の腕の中で,みゆは崩れ落ちる.
カイルとの戦いが怖かった.
ウィルたちが死んでしまうかと思った.
みゆは恋人にしがみついて,ぼろぼろと涙をこぼす.
本当は,神聖公国で一人ぼっちで心細い.
カリヴァニア王国を救う自信がない.
みゆはあまりにも非力な存在で,何もできない.
「ミユちゃん.」
ウィルは,泣き続けるみゆの背中を辛抱強くさすっていた.
「今,どこにいるの?」
質問の意味をつかみ損ねて,みゆはしばらくぼうとする.
そして気づいた.
みゆの肉体は,ここにはない.
神聖公国に置きっぱなしだ.
「会いに行くから,教えて.」
黒の瞳が真摯に見つめる.
「私は首都神殿にいる.」
みゆは,ライクシードやセシリアのことを思い出した.
思い出したとたん,体が浮き上がる.
目覚めを急かすように,水面へ引っぱられる.
「ウィル,」
手を伸ばすと,少年はみゆの手をつかんだ.
引き寄せて,指先に口づける.
「君は僕のもの.すぐに迎えに行くよ.」
だから待っていてとほほ笑んで,ウィルは自分から手を離した.
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