閉ざされた部屋の扉.
それを開けば,きっと違う未来が広がっている.
ぶはぁああああ!
飲んでいたオレンジジュースを,盛大に唯ちゃんは吹き出した.
その隣では由紀ちゃんが,食べかけのハンバーガーを手にむせている.
「え,えぇっと〜〜〜〜〜,」
ナゲットと一緒に,私は途方にくれた.
「も,も,もう一回,言ってよ,イッカ!」
放課後のハンバーガーショップで,唯ちゃんはどもった.
「お,落ち着きなよ,唯!」
けれど由紀ちゃんも,あわあわしている.
「あ〜,う〜,そのぉ……,」
私は,イッチーに言われたことを復唱した.
「お父さんにはなれないって,い,イセーとして意識しているからって……,」
「あ,あああああああんんた……,」
いつもは冷静な唯ちゃんの顔が,赤くなったり青くなったり.
「も,もうちょいで,イッチーに食われるところだったんじゃ……!?」
くわれる?
「な,何を言っているのよ,唯! この子たち両想いなんだよ……,」
両想い? 私とイッチーが……?
「馬鹿っ,イッカの好きなんか,私たちに対する好きと一緒に決まっているでしょ!」
お花畑,シロツメグサの花冠を編んで……,
「この天然馬鹿に教師との恋愛なんて,そんな危ないこと,」
あははは……,待てぇ,こいつぅ,
うふふふ……,捕まえてごらんなさい〜.
「でも,イッチーなら大丈夫じゃないの? ……多分,」
「多分なんていい加減なことで,この子を,」
はっと気づくと,唯ちゃんと由紀ちゃんが怖い顔を並べていた.
「イッカ,あんた,」
ぴくぴくっと震える唯ちゃんの口の端.
「変な妄想で遊んでないで,真面目に考えなさい!」
バンっとテーブルを叩く,フライドポテトは空中浮揚.
「えぇぇええぇええっとぉぉぉ〜〜〜〜……,」
イセー,イセー,次の駅はイセー.
伊勢エビ,伊勢志摩スペイ○村,赤福,あんこ,……大福食べたい.
「ケチャップを頬をつけている場合じゃないのよ!」
「ええ〜〜〜,どこぉ!?」
「右! もうちょっと左!」
唯司令官の指示の下,ミッキーマウ○のハンカチはさまよう.
「馬鹿! 右と左も分からないの! お箸を持つ方が右! そう,そっち!」
昔,パパとママと一緒に行ったディズニーランドのお土産だ.
「そこだ!」
ミッション,コンプリィィィィト!
「いえ〜い! 唯ちゃん,あっりがとー!」
立ち上がった瞬間,周りに居た知らない人たちからも拍手をもらった…….
閉ざされた部屋の扉は,容易に開けてはならない.
それなりのリスク管理が必要だ,それが社会人ってものだろう?
今日の3時間目は,藤原壱架の居る教室だ.
自分の呼吸の回数を気にしすぎている,廊下がやけに長く,そして短く感じる.
堕ちた人間だけが背負う十字架.
恋は人を詩人にさせる,……が,それはミュージシャンの場合のみである.
残念なことに俺は,存在しないものを虚数という概念を用いてはっきりと示してしまう数学の信徒.
物理学者とシステムエンジニアには負けられない!
「座れ! チャイムはもう鳴っているぞ!」
がやがやとにぎやかな教室に,足を踏み入れる.
さすがにどくんと心臓が鳴った.
いつもと変わらない喧騒に,意識して呼吸をしずめてゆく.
藤原壱架は,居た.
いつもの席に,いつもの眼差しで.
視線が合うと,藤原壱架は通常とは異なる挙動を示した.
俺はさりげなく視線を逸らす,恥らうように染まる頬を片隅に捉えながら.
いつもの授業,いつもの内容.
ただ,空気の色だけが異なる.
きりがいいからと5分だけ早くに授業を終えると,生徒たちは大喜びだ.
次の授業では小テストを行うと宣言すると,すぐさま不平不満の声.
慣れてくると面白い.
塾や予備校の生徒たちとは違って,彼らは単純に遊ぶことに夢中だ.
教師としては新米だが,バイト講師歴は長い.
実は,国語や理科を教えたこともあるのだ.
「先生! 先生!」
教室から数学準備室へ戻る途中の廊下で,俺は案の定,藤原壱架に追いかけられた.
「イッチー,待って!」
振り返ると,……なんだ,笠原唯と当麻由紀はあれで尾行をしているつもりか? 思いっきり見えているぞ.
「イッチー,教えて! 私とイッチーは両想いなの!?」
なんて直撃なんだ,藤原壱架…….
俺はあきれ返ってしまう.
「藤原壱架,教師と生徒が両想いとはどんな状態か,分かるか?」
詐欺師の顔で,俺は微笑む.
なぜならここは,……学校だからだ.