甘い口付けで,すべてを忘れさせる.
薄暗い路地裏にある店先で,男は優雅にお辞儀をして客を送り出した.
客は,若い女だ.
交通事故で死んだ,婚約者を忘れたいと泣いた.
客を見送った男は,口元に皮肉な笑みを浮かべた.
手には,報酬の五千円札.
まことに,人間とは哀しい生き物だ.
男は一人,店内へと戻った.
店内には,くたびれたスーツを着た男が立っていた.
予期していなかった友の訪問に,男は驚いた.
「大目,ひさしぶりじゃないか.」
大目(だいもく)と呼ばれた男は,静かに微笑んだ.
「……ひさしぶりだ.虚口.」
そして,勝手に入ってすまないと詫びる.
虚口(うろぐち)は,肩を竦めた.
「別にいいさ.それにしても,相変わらず君は人間に媚びた格好をしているね.」
濃い色のスーツに,ネクタイまで締めて.
満員電車に乗って通勤する,どこにでも居そうなサラリーマンに見える.
「そういう君こそ,きっちりとタイを締めているじゃないか.」
対する虚口の方は,品のいい蝶ネクタイ.
虚口は店の奥に入るように,手振りで示した.
「お客さまへのサービスさ.気味の悪い老人よりも,若く美しい男の方がよかろう.」
虚口は,自分の唇を指でぽんぽんと叩く.
バーカウンターに大目を座らせ,店主である自身も隣に腰掛けた.
「趣味の悪い仕事だ.」
大目は,その名の通り大きな目を伏せた.
店内は灯りが少なく,大層暗かったが,彼らには支障は無い.
大目は重たそうなビジネスバッグを,足元に置いた.
「お客さまの望みを叶えているだけさ.」
虚口はカウンターに置きっぱなしになっている酒を,大目のグラスに注ぐ.
「虚口,あの客はきっとまた来る.」
壊れそうに脆いグラスを見つめながら,大目は言った.
「なぜ? 婚約者のことは忘れるのに.」
虚口は自分のグラスにも,酒を注ぐ.
「何かつらいこと,受け入れがたいことがあるたびに,必ず来る.」
大目は,酒には手をつけなかった.
「別にいいではないか.」
何か問題でもあるのか,と虚口は笑った.
「忘れることと,乗り越えることは違うんだ.」
虚口は瞬いて,首を傾げた.
「そいつは初耳だ.」
「私は何度も,そんな人間の強さを見てきた.」
「へぇ…….」
信じられないと,虚口は唇をゆがめた.
そのとき,ビィィィとドアのブザーが,か細く鳴った.
「お客さまが来た.」
虚口は立ち上がる,次の獲物が来たのだ.
「虚口.」と,大目は彼の背中に声をかけた.
「君は人間から,悲しみを乗り越えるチャンスを奪っている.」
虚口は,背中で答えた.
「僕は人間から必要とされている.」
人外の生き物だが,生きるのを許されていると.
虚口が,客を店内に招き入れた.
大目は,そっと奥の暗がりに隠れる.
一つ目の彼は,人前に顔を晒せない.
あぁ,けれど,いつかきっと彼を受け入れてくれる人間に出会えると信じている.
だからこそ,虚口の行いを止めたかった.
大目は足音を立てずに,裏口の方へと去る.
毎日,彼の店に通い,毎日,同じ話をした.
彼はいつも,ひさしぶりだと挨拶をする.
虚口はその唇によって,自らの記憶も失っている…….
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